【利長と高岡】
加賀藩二代藩主前田利長は、慶長十四年(一六〇九)当時「関野」と呼ばれていた荒野に城を築き、近郊より民を集め城下町を造った。これが「高岡」の始まりである。  高岡の市街地は、現在も利長による開町時の町割りが形を変えることなく残されている。  利長は、市街地の東方、南北に延びる標高十二メートル余りの台地北部に城を築いた。そして、台地の西方、一段下がった場所を碁盤目状に区画し、近郊の城下町より町人を集め町建てを許した。整然と区画された「商人のまち」は、旧城下町の名に因んで「木船(キフネ)町」・「守山(モリヤマ)町」あるいは、城との位置関係から「御馬出(オンマダシ)町」・「小馬出(コンマダシ)町」などと称された。また、商人まちの西方には、「利屋(トギヤ)町」や「桧物屋(ヒモノヤ)町」などの職人町、そしてさらにその西方の「千保(センボ)川」の対岸には近郊の村より七人の鋳物師を招き「金屋(カネヤ)町」が開かれた。  当初城下町として造られた「高岡」は、慶長十九年(一六一四)前田利長の死去とともに家臣団は金沢へ引き上げ、まもなく廃城となり、急速にさびれ始めた。  このような状態を憂えた三代藩主前田利常は元和六年(一六二〇)に高岡商人の他所への転出を禁じ、城下町から商工業郡市への転換を図った。  利常は、城に替わる藩主の宿泊所として「御旅屋(オタヤ)」を創設し、「布判押人」を置き、砺波地方全域の特産であった「布」の集散地とした。また、川原町に魚問屋を置き越中全域の魚を管理し上質のものは金沢へ移送した。そして、寛文十一年(一六七一)に、「綿問屋」を設置し、廃城後の城内には「米蔵」を置いた。以後高岡は加賀藩では、藩都金沢に次ぐ商工業都市として発展していく。

【沿革】
曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。  利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。  造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、明王堂(現僧堂)、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている。

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